Category: フィリピン

  • フィリピンの歴史

    フィリピンの歴史

     本記事では、フィリピンという国をより深く理解するために、その歴史を振り返ります。フィリピンは、独立を果たすまでの長い間、さまざまな外国勢力の支配を受けてきました。その過程で多様な文化が融合し、現在のフィリピン社会が形作られています。 スペインによる統治 1521年、東南アジアの香辛料を求めて航海していたスペインの探検家マゼランが、フィリピンを「発見」しました。彼らはセブ島に上陸し、武力を背景にキリスト教への改宗とスペインへの服従をセブの首長たちに要求します。 多くの首長がこれを受け入れた一方で、マクタン島の首長ラプラプはこれを拒否し、武力で抵抗しました。この「マクタン島の戦い」でマゼランは命を落とし、ラプラプはフィリピン史上初めて外国の侵略に勝利した英雄として称えられています。 その後、1559年にスペイン王フェリペ2世が本格的な植民地化を開始し、1565年にはセブ島が正式にスペインの植民地となりました。フィリピンという国名は、彼の名前「フェリペ」に由来しています。 その後、フィリピンから太平洋を横断し、メキシコを経由してスペイン本国へと帰る航路が発見されると、スペインはこの新たな貿易ルートを活用するため、フィリピンへの支配を一層強めていきました。1571年、スペイン軍はマニラを征服し、そこをフィリピン統治の首都と定めます。ここから、マニラとメキシコのアカプルコを結ぶ「ガレオン貿易」と呼ばれる大規模な交易が始まります。この貿易は、その名の由来となった大型船「ガレオン船」を使って行われ、以後200年以上にわたり、本国スペインとマニラ在住のスペイン人たちの経済基盤を支えました。 スペインはさらに支配地域を広げるため、フィリピン各地に遠征を重ねます。しかしその道のりは平坦ではありませんでした。キリスト教への改宗を拒むイスラム教徒たちや、フィリピンに根付いていた中国系移民(華僑)、さらには貿易航路の支配を狙うオランダなど、さまざまな勢力の抵抗に直面します。中でもミンダナオ島を中心とするイスラム勢力の反発は特に根強く、その影響は現代のフィリピン社会にも見られます。 やがて19世紀後半になると、長年にわたる植民地支配からの解放を目指す動きが高まり、1892年には医師であり思想家でもあったホセ・リサールが「フィリピン同盟」を結成しました。リサールは平和的な改革を通じた独立を訴えましたが、彼の思想はスペイン当局にとって脅威と見なされ、逮捕の末、銃殺されてしまいます。 これをきっかけに、より急進的な行動を求める動きが強まり、リサールの影響を受けたアンドレス・ボニファシオは「カティプナン」という秘密結社を結成。1896年、ついに武装蜂起が勃発し、フィリピン革命が始まりました。 しかし、革命運動は内部対立により分裂し、急進派と穏健派の間で対立が深まります。最終的に穏健派のエミリオ・アギナルドが主導権を握り、急進派であったボニファシオを処刑するという悲劇も起こりました。その後、アギナルドも亡命を余儀なくされ、革命は一時的に失敗に終わります。 とはいえ、この革命によってスペインの統治は大きく揺らぎ、フィリピンに新たな転機が訪れます。そして、この動きに乗じて登場するのがアメリカでした。 アメリカによる統治 1898年、アメリカ・スペイン戦争が勃発すると、アメリカはその勢いのままフィリピンへの進軍を開始しました。アメリカは香港に亡命していたアギナルドと連携し、彼を通じてフィリピン革命軍の支持を取りつけます。そして両軍は協力して、マニラに駐留していたスペイン軍を降伏させることに成功しました。 アギナルドはスペインの支配が終われば独立できると信じ、1898年に「フィリピン共和国」の独立を宣言します。しかし、その希望は打ち砕かれることになります。同年に締結された「パリ条約」において、アメリカはスペインからフィリピンを2,000万ドルで買収したのです。この条約により、スペインの支配は終わりましたが、フィリピンは新たにアメリカの植民地となってしまいました。 アメリカがフィリピン共和国の独立を認めなかったことで、翌1899年には「フィリピン・アメリカ戦争」が勃発します。独立を目指すフィリピン軍は勇敢に戦いますが、圧倒的なアメリカの軍事力の前に敗れ、1902年にはアメリカによる正式な植民地支配が始まりました。 アメリカ統治下のフィリピンでは、行政・立法・司法といった政府機構において次第にフィリピン人の参加が進められ、一定の自治が与えられるようになります。しかし、その実権は依然としてアメリカ本国が握っており、真の意味での自主独立には程遠いものでした。 また、アメリカは英語を公用語として徹底させ、学校教育においても英語を用いた教育が進められました。これにより、フィリピンの次世代にアメリカ文化を浸透させ、価値観の同化を図っていったのです。 第一次世界大戦後には、フィリピン人の間でさらに自治や独立を求める声が高まり、政治家ケソンらがその運動をリードしていきます。世界恐慌の影響を受けてアメリカ国内でもフィリピン独立への支持が高まると、1934年に「フィリピン独立法」が可決され、10年後の1946年に独立を認める方針が定められました。 この法律に基づき、「フィリピン独立準備政府」が設立され、ケソンが初代大統領に就任します。とはいえ、この政府はあくまで“準備段階”のものであり、制定される法律にはアメリカ大統領の承認が必要とされるなど、引き続き大きな制約を受けていました。 日本による侵攻、独立から民主化へ 1941年に太平洋戦争が始まると、日本軍はルソン島の米軍基地を爆撃し、日本軍によるフィリピン侵攻が始まりました。その後日本軍がマニラへと侵攻したため、フィリピン独立準備政府のケソン大統領はアメリカに亡命したものの、1944年に亡くなったためオスメーニャが第二代大統領として独立へ備えることとなりました。 日本軍はマニラを占領すると、アメリカとの戦争協力を条件にフィリピンの独立を承認し、1943年にホセ・ラウレルを大統領とする新政府を樹立しました。しかしこの独立は、真の主権を伴わない「名目上の独立」に過ぎず、日本の意向に大きく左右されるものでした。 戦況が変化し、アメリカ軍が反攻を開始すると、1945年にはフィリピンに上陸し、マニラ奪還に向けた市街戦が勃発します。この戦いは熾烈を極め、多くのマニラ市民が命を落としました。 やがて戦争が終結し、当初から予定されていたフィリピン独立法に基づき、1946年7月4日、フィリピンは正式に「フィリピン共和国」として独立を果たします。スペイン、アメリカ、日本と、約400年に及んだ外国支配の時代が、ついに幕を下ろしました。 初代大統領にはロハスが就任しますが、在任中に急逝し、副大統領だったキリノがその任を継ぐこととなります。キリノ大統領は、戦後の重要な課題として日本人戦犯への対応を迫られました。彼自身、マニラ市街戦で妻と三人の子どもを失うという深い悲しみを経験していましたが、それにもかかわらず彼はすべての日本人戦犯に対して恩赦を与えるという決断を下します。キリノは「未来の世代に憎しみを残さないため」と語り、その姿勢は後にフィリピンが親日的な国である背景の一つとされています。 戦後のフィリピンは外国資本を積極的に受け入れ、工業化や自由貿易が進むなど経済的な発展を見せましたが、一方で都市と農村の格差は拡大し、失業やインフレといった問題も深刻化していきます。1965年、こうした社会課題の是正を訴えてマルコスが大統領に当選すると、彼は強権的な体制を築き、憲法を改正して再選禁止条項を撤廃し長期政権に乗り出します。 しかしその政権は、反対派への弾圧と汚職によって次第に国民の不満を高めていきました。1983年には、反対派の指導者ベニグノ・アキノが暗殺され、これが引き金となって民主化を求める運動が一気に拡大します。1986年、妻のコラソン・アキノが大統領選で勝利すると、マルコスは選挙結果を否認しようとしましたが、国民の強い抗議と国際的な圧力を受け、ついにアメリカへ亡命。この一連の動きは「ピープルパワー革命」として知られ、フィリピンに再び民主主義がもたらされる転機となりました。 その後もラモス、エストラーダ、アロヨといった大統領が続きますが、いずれの政権も汚職やスキャンダルが相次ぎ、国民の政治不信は拭いきれませんでした。そのような中で、アキノ元大統領の息子であるベニグノ・アキノ三世が政権に就くと、清廉な政治を掲げて改革を進めていきました。 次に登場したドゥテルテ大統領は、強硬姿勢で麻薬や犯罪、汚職への対応に乗り出し、国際的な批判を浴びつつも、国内では高い支持率を維持しました。そして2022年、マルコス元大統領の息子である「ボンボン・マルコス」が大統領に就任。副大統領にはドゥテルテの娘・サラが就任し、両家による強力なタッグが新たな政権を築いています。  400年に及ぶ植民地支配を経て独立したフィリピンは、多文化が融合したユニークな国です。日本との関係も深く、親日的な国民性の背景には歴史的な出来事や指導者の決断があることがわかります。  弊社では、こうした歴史的背景を踏まえた上で、フィリピンとの協力関係を大切にしながら、外国人材に関する情報提供や支援を行っております。

  • フィリピンとはどんな国?

    フィリピンとはどんな国?

     にっぽんハブでは、フィリピンの信頼できる人材紹介会社と提携し、フィリピンからの優秀な人材確保を支援しています。特定技能人材として、なぜフィリピン人が多くの企業から選ばれているのか──その理由は、フィリピンという国の特性に深く根ざしています 若くて活力ある人口構成  フィリピン最大の強みのひとつは、その圧倒的な「若さ」です。2024年時点で日本とフィリピンの人口はほぼ同規模(日本:約1.24億人、フィリピン:約1.16億人)ですが、平均年齢は大きく異なります。 ・日本   :48.6歳・フィリピン:24.1歳  しかもフィリピンでは、現在も年間約100万人のペースで人口が増加しています。  こうした急速な人口増に国内産業が追いつかず、国として海外就労を推進。送り出しの制度や教育体制の整備も進められています。 2024年 日本 フィリピン 人口 1.24億人 1.16億人 人口増加率 -0.47% +0.89% 人口増加見通し 2015年より一貫した減少 2055年まで増加 平均年齢 48.6歳 24.1歳 面積 37.7万平方キロメートル 34.2万平方キロメートル GDP 4.1兆ドル 4,715億ドル 公用語 日本語 タガログ語、英語 ※出典:World population review 民族・言語の多様性と適応力  フィリピンは7,000以上の島々からなる多民族国家で、地域ごとに異なる言語や文化が共存しています。日常会話では英語やタガログ語が一般的に使用されますが、家庭や地域では母語も根強く残っています。 タガログ 約3,023万人 26.0% ビサヤ系 約3,508万人 30.2% イロカノ 約935万人 8.0% ビコール 約757万人 6.5% その他の言語 約4,310万人 37.3% 合計 約1.16億人 100.0% ※出典:Philippine Statics…